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正木 時茂(まさき ときしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。里見氏の家臣。里見義頼の次男。母は正木時茂(正木時綱の子)の娘。初名は「時堯」だったとされているが、確実な根拠はない。 == 生涯 == 天正4年(1576年) 、里見氏第7代当主・里見義頼の次男として生まれる。 天正9年(1581年)、大多喜城主正木憲時が謀反を起こして討たれると(実際には義頼の家督相続に異を唱えたために粛清されたとも)、正木大膳亮の家名の断絶が惜しまれたために、義頼は次男の弥九郎に正木氏を継がせて当主とし、大多喜城主に据えた。 天正18年(1590年)、兄である里見義康が上総国を没収されると安房に移住。8000石を与えられ、里見家筆頭重臣となる。慶長8年(1603年)に義康が死去すると、甥の里見忠義に仕え、館山藩の藩政を補佐した〔。 慶長19年(1614年)、大久保忠隣失脚に連座して里見忠義が安房国を没収される処分を受け、伯耆国倉吉藩に移される(事実上の配流とされる)。時茂はこの1年前から駿府に滞在しており(徳川家康に呼び出されていたとされる)、倉吉に向かう忠義一行が途中駿府に立ち寄った際に合流している。しかし、大坂の陣終了後、時茂のみが家康に駿府に呼び戻され〔、家康死後の元和3年(1617年)、今度は徳川秀忠によって江戸に呼び出され、江戸桜田にあった自らの屋敷で蟄居を命じられている〔。 元和8年(1622年)、忠義の死去により倉吉藩が無嗣改易されると、鳥取藩の池田光政にお預けとされ、鳥取に移された。鳥取では2000俵の合力米が給付され、丁重に扱われたという〔。 寛永7年(1630年)6月20日、預かりの身のまま同地で死去〔〔。墓所は倉吉の大岳院で、主君里見忠義の墓の傍らに葬られている。 大変な怪力の持ち主で、鳥取藩で相撲の技を見せて大いに賞せられたという伝説がある。『里見代々記』によれば神子上典膳と一騎打ちして引き分けた腕をもつ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正木時茂 (里見義頼子)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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